京都帝釋天
1200年の歴史と霊験
京都紫雲山帝釈天
ご由緒
京都帝釋天は、山号を紫雲山と称し、宝亀11年(780年)、医聖の名高き和気清磨公が丹波国吉富舟枝千谷(当地)に草創した由緒ある古刹である。
その後、天長年間に河内守和気朝臣仲世によって弘法大師に附属され、護摩堂等の諸堂が完備したが、応仁年中、寛永年中と二度の火災にあい、堂宇は烏有に帰したものの尊像は不思議に難をのがれ給い、人々は感涙にむせんだという。
現在の堂宇は、貞享4年(1688年)、園部藩主小出伊勢守をはじめとして、各地の信者からの浄財により仮の御堂として再建されたものである(京都府指定文化財)。
堂内須弥壇上には、宮殿に帝釋天立像をおさめ、脇侍として等身大の増長天立像、多聞天(毘沙門天) 立像を安置するが(共に奈良時代末期〜平安時代初期の作・文化財)、草創当時は、四天王像が帝釋天を守る形で東南西北に配置されていたものと考えられる。
なお、江戸時代には、京都仙洞御所からの寄進等もあり、帝釋天を庚申(かのえさる)の日にお祀りしたことから〝庚申さん(こうしんさん)"と親しまれ、近畿庚申信仰の一大拠点となっていた。
ご本尊の帝釋天は、宇宙の中心、須弥山(しゅみせん)喜(善)見城の主として天上界の神々を統率し、特に四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)を側近に従え、厄、難、邪、悪、病魔等を打ち払って、みなぎる力を与え給い、更に、経典に百施の王者と書かれている如く「心から信ずる者の願いごとを叶えてくださる」あらたかな力強い仏神である。また、いつとはなく「小遣いや金銭に不自由しない」といわれて、この面でも幅広い信者層がある。
ご本尊は、古来よりのしきたりで、30年〜40年に一度しか開帳が行われず、近年では、大正6年、昭和28年、平成4年に宮殿の扉が開かれて尊顔を拝することができた。
参道の山路を歩くと、大自然の中に古代からの息吹きを感じることができ、念珠のように連なる108の「願いの鐘」を静かに打つと、その余韻が心にしみわたり、新しい生命(いのち)を実感させてくれる。
また、祭祀の方法などには、日本人の魂の古里ともいうべき神仏同体の形態をとどめており、更に、紫雲山周辺には、寺床(てらどこ)、拝み谷(おがみだに)、讃岐金毘羅宮遥拝所など歴史を物語る場所が点在する。
山主合掌